はじめに
…ここ二年程、時間が許す限り、この地域の祭りに出掛け、見たもの思い付いたままを記録してきた。民俗学研究者の注目を集めてきた三遠南信の祭りについてはすでに多くの報告があり、一介の美術家でしかない私に今改めてそれを上回る記録を作る術もなく、必要ならそれを求めれば良い。私の記録は、祭りの詳細な記録ではなく、また有名な祭り、民俗学的に重要な祭りを選んでもいない。そして当然ながら、興味の対象は美術家の視点にならざるを得ない。気が付けば目は祭場の設定、採り物・衣裳や切り絵の造形、あるいは舞いの美しさを追っている。いきおい記述も美しさが基準になる。それは民俗学的な観点とは相容れないかもしれない。しかし私はこれを書き終えようとする今、各地に伝わる祭りに最も必要な観点が、この「美しさ」だと………… 味岡伸太郎
突然、「ランジョウ、ランジョウ」の声とともに庁屋の板壁を木で叩く音。板壁の前には数人の男が群がり、中には丸太を二人掛かりで抱え壁に打ち付ける男達もいる。いよいよ庭能が始まる…
午後三時になると拝殿前に人が集まってきた。太鼓が間をあけて打たれ、宮殿から拝殿を貫く筵が敷かれた。太鼓の間が短くなり、急調子に。太鼓はいよいよ激しくなる。突然、横縞模様の鬼が拝殿を一気に走り抜け、境内に飛び込んで行った…
舞の太鼓を打っていた宮人が弓を持って現れた。他に二人の勢子が注連縄を襷に掛け、棒を手にしている。鹿追い行事がいよいよ始まる…
お鍬祭りは伊勢の外宮の御師から送られた木製小型の鍬を神輿に納め、村送りされ、その神輿行列が華やかな練りを伴っていた。そのお鍬様の行列が飯田に向かう途中…
庭に筵十二枚を口の字形に敷く。中心に筵半分の大きさで土を露出させ、そこを炉に見立てる。金光家で繰り広げられる、庭の神楽の舞台だ。縁側には村人の笑顔が集う…
三谷祭 海中渡御
二〇〇三年十月十九日。
号砲一発。晒しと股引き姿の数十人の男達が浜を降り、三谷祭の海中渡御が始まった。四台の山車が次々と海を渡っていき、海岸は見守る人々で埋まっている。
海中渡御は、元禄九年(一六九六)八月のある夜、三谷村の庄屋佐左衛門が、村の産土神・八劔大明神が神輿に乗って、若宮八幡へ渡御される夢を見たことに始まる。それ以来、重陽の節供の九月九日を吉日として、神幸を行ったと伝わる。
午前十時過ぎ、四台の山車が次々と三谷温泉下の防潮堤防に集まってきた
地域の足として活躍している路線。決して派手さはないし、観光客が大挙して利用する路線というわけでもない。それでも地域にとってなくてはならない路線ばかりで、毎日地元の人々の素顔を覗くことのできる路線である。本書は、そんな私鉄とその沿線の素顔を描いたものである。本書を片手に、列車に乗り、車窓から景色を眺め、列車を降り、町を歩き、そこに生きる人々とふれあい、この地域の素顔を少しでも知っていただきたい。…
真っ赤のちゃんちゃんこと赤い鉢巻き姿の猿田彦に扮した若者が、一度に数十本の手筒を乱打する。夜空を真っ赤に染める猿田彦の花火は、壮絶な火の祭りだ。一本一本の手筒の物足りなさは完全に消し飛ぶ…
冬の気配が忍び寄る天龍村坂部。紅葉も終ろうとし、一段と寒さが増した秋の日、朝十時に数人が集ってきた。諏訪神社の境内は落ちた杉の葉が一面に散っている。祭りは境内の掃き掃除から始った…
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