目次
●懐かしさの意味 −序に代えて−
ここ数年、世はレトロブームである。単に団塊の世代が青春時代を懐かしむだけでなく、若者にもその波が押し寄せているらしい。ポップな昭和のデザインをあしらった商品や、昭和を切り口にした書籍が売れているようだし、平成19年には昭和30年代の東京を舞台にした映画「ALWAYS 続・三丁目の夕日」が大ヒットした。度が過ぎて「廃墟マニア」まで登場する始末である…
●火の見櫓の歴史
江戸時代の火の見櫓
火の見櫓が初めて登場したのは江戸時代初期といわれる。慶安三年(1650)、二名の旗本を火消役に任じたのが幕府直轄の火消しの最初。これを「定火消」といい、江戸城と武家屋敷などの防備にあたった。万治元年(1658)に制度を強化し、四組の火消役は幕府から与えられた「火消屋敷」に常駐となったが、この屋敷に建設された火の見櫓が最初である…
●消えゆく火の見櫓、残る火の見櫓
防災無線の登場で警報装置としての役割を終えたものの、高層の火の見櫓はホースの乾燥や拡声器設置塔として活用された。しかし老朽化が目立ち危険性が叫ばれる中、次第に撤去されてゆくことになる。あるいは櫓は残されたものの、屋根や見張り台が取り外されたものもある…
●火の見櫓慕情 写真帖
●三河の火の見櫓
豊橋の市街地に残る唯一の火の見櫓
豊橋市八町通四丁目
豊橋のど真ん中、国道一号と旧東海道に挟まれて、火の見櫓が立っている。大きな建造物が点在するこの界隈では、目立つようで目立たない。国道1号の喧騒をよそに、ひっそり佇む風情である。
豊橋市消防団八町分団の詰所に隣接するこの櫓は、分団の管轄区域にある飽海町の尾崎鉄工所によって…
●遠州の火の見櫓
姫街道の難所本坂峠の今昔
引佐郡三ヶ日町本坂
本坂は国境の集落である。その昔、西国から東へ向かった旅人が、姫街道の本坂峠を越えて最初に出会う村が本坂であった。戦国時代から江戸時代の初期にかけて関所が設けられ、村外れには一里塚もあった。
往古は姫街道最大の難所といわれた本坂峠も、今は昭和五十四年に開通した本坂トンネルで楽に越えられる…
●火の見櫓の形
四本脚で背が高く、上部には見張り台。その上に屋根が被り、屋根の下には半鐘を吊り下げる。多くの人がイメージする火の見櫓とは、だいたいこのような形ではないだろうか。
しかし、その形は実に様々だ。細部を観察すると、どの部分にも櫓ごとに差異が発見できる。…
●火の見櫓を建設する
幡豆町東幡豆で岩井鉄工所を経営する岩井俊雄さん(昭和15年生れ)は、吉良町荻原にあるマルヤス鉄工(現・岡安鉄工)で修行していた昭和三十年代、火の見櫓の建設に携わった。当時はまさに火の見櫓建設の最盛期。しかしこの頃、広大な農地を控える西三河に農機具を作る「鍬鍛冶」は多かったが…
●郷愁を誘う火消しの用具 消防法被のこと
消防にまつわる現役の用具で、火の見櫓と並んで郷愁を誘うものに消防法被がある。黒地の袖に赤帯をあしらい、背中に消防団のマークを染めたもの。江戸時代から受け継がれている消防装束で、これを羽織る消防団員の姿は実に粋だ。今も冬期を中心に消防団活動で着用されることが多く、馴染み深い存在である。…
●半鐘を鳴らす 〜相月にて
半鐘の音が聞かれなくなって久しい。そもそも半鐘の音を聞いたことがないという若い人も多いだろう。今では防災無線で火災の報知と消防団員を召集するのが普通だ。
ところが、今なお半鐘が聞かれる地域がこの三河遠州にも存在する。北遠の旧佐久間町。…
●消失の意味 −後書きに代えて−
昭和30年3月の「北浜村だより」にこんな記事が掲載されている。無数に存在した火の見櫓の建設をいちいち報じた新聞や市町村広報誌は極めて少なく、貴重な資料である。
「無火災60周年に記念に火の見建設 上善地区長 鈴木俊一郎
火の見櫓は消防のシンボルであり消防隊は常に之を中心に消防精神を養い消防思想の普及に防火運動を行い生命財産を奪う火災に対しては最小限度に留めなくてはなりません。」…